昭和46年10月18日 月次祭



 御神誡 一、「口に真を語りつつ、心に真のなきこと。」とあります

 口に真を語りつつ、心に真のなきこと」御道の信心を頂きますと、この真ということが、いたるところに出て参ります、真とか真心とかね、その真の道を私共が、求めまたは分からして頂いて、真の道を歩かせて頂くという、そこに人間の、幸福があると、教祖の神様は教えておられるわけです、ですから口に真を語りつつ心にも真があり、行いの上にもやはり真溢れる現し方が出来るという。
 そういうおかげを頂かなければならんのでございます、もうなさる事、言われる事、言うなら、手と口と足と心が、全てが真で絞られなければならない、今朝から私この、合楽食堂の、おぉ中村さんが、朝の御祈念に毎朝参ってみえた、「先生今朝方御夢を頂きました」と、「そりゃそのどういう夢ですか」「そりゃはあのまあ有り難い御夢と思うんですけれども、どう言う事でしょうか」とこう言う。
 御夢の中に合楽の野口さんが、「御大祭御大祭」と繰り返して言うておられる所を頂いた、野口真子さんって言うんです、しんは真と書いてある、真の子と書いて、その野口さんが「御大祭御大祭」とこう言うておられる、それで「あなたはどうですか」と言われて目が覚めた、野口さんの信心を知っておりますから、その野口さんの信心の素晴らしいことであろうかと、成程そういうかも知れん、けれどものというのは、私はのう頭のことだと思う頭のこと、言うならば思うておる事と言う事である。
 思うておる事も口で言うておることも真とこう言う事なんである、そこで今の合楽の御信者さん、御信奉の皆さんはです、現在どういう心の状態であればあなた方は真の道を一生懸命、稽古さして頂いておるんだ、歩かせて頂いておるんだと言う事を、が分かるわけ、後、明日、明後日に御祭を控えさして頂き、年に一回の教祖大祭、生神金光大神祭が、10月の20日に行われる、先日からはほとんどの、幹部中心になる方達が、御本部の御祭を頂いて、その御比礼を頂いて、合楽に帰っての御祭になられた。
 ではならないと、だからその御祭を、まあにぎにぎしく仕えるというだけではない、御祭を御祭と、御祭の中にです、私共一人一人の真心というものが、込められる、結集されるですから、今の合楽の御信者さんの心の中には、もう寝ても覚めても「御大祭、御大祭、20日の御大祭は。」と言う事になるだろうとこう思う、今その事が心の中に思い続けられておるならばです、あなたは真の道を今歩いておられると、言う事が言えるのじゃないでしょうかね。
 御大祭と言やぁお互いが、日々おかげを頂かしてもろうて、その御礼をどういう形に現すかと、真心をどういう形に現すかと、いう、言うならば答案用紙のようなものだとも言われておりますから、それに私共がどう応えさせて頂くかと、御大祭御大祭、寝ても覚めても御大祭、ですから頭の中が御大祭御大祭でありますから、ひょっとすると、ものを忘れたりすることがあるかも知れん、一生懸命例えば縫い物をしよる者が、御大祭御大祭と思いよるから縫いすぎるようなことがあるかも知れん。
 けれどもそれで良いのだ、その思いが私は結集されて御大祭、「中村さんあんたが頂いておるのは、なるほど野口さんの信心の素晴らしいと言う事もそうであろう、恐らく野口さんの心の中には、その事ばっかりであろう」、先日から野口さんが色々な用事、用件がいっぱいこうある、けれども「20日は出けんよ、もう18日、19日はもう駄目よ」と言う様な風にです、その御大祭の事に対する御用の事がありますから、それをよけてよけて、こう御大祭のところに思いを結集して行かれるという。
 そういう事でも有ろう、と同時に言うならば、私共が思うておることも、または口で言うておることも、やはり御大祭御大祭であるならばです、それはそのまま私は真だと思う。私が思うのですけれどもね、、私共が日本一に偉い人になろうと思うたって、それは、まあ不可能です、私共のような凡人では、けれどもね、けれどもその、本当に志を立てて、一心発起さしてもろうてです、本気で有り難いと思わせてもらえる、有り難いという意味においての日本一を目指すということならばです。
 まあ言うなら誰でも出来ると思うです、有難くなりたい有難くなりたい、それにはどういう信心さしてもろうたら、どういう風に、道を行じていったら有難くなれるであるかと、有難いというものは自分で、有難くなろうと思うても有難くなれるものではありません、これは神様が許されるもの、そこで絶えず神様に許される心、神様に喜んで頂く心というものを、求め求めして行かなければなりません、だから有難くならせて頂こうという、もうそれこそあたしこそ日本一の、幸せ者であろうと思えることはです。
 有り難いという内容があって始めて私は日本一の幸せ者だと言う事が言えるのじゃないかとこう思う、物じゃない、金じゃない、けれども物がいらんのではない、金がいらんのではない、有り難いと思わせて頂く心に伴うておるところの物であり、金であり、又は地位であり名誉であると言う事になってくる時です、いよいよ有り難いと言う事になれる、今日私はここで皆にそれを言うんです、「一つ日本一を目指しなさい」、一編もう20年も前でしたか。
 久富正義さんのお母さんがお知らせを頂かれた、正義さんのお母さんそれに富士の山が書いてあってね、その日本一と言う様なお知らせを頂かれた、正義さんどうでも一つ、富士の山のような、気高い信心をさして頂いて、一つ日本一を目指さなきゃいけません、何でも良い、ですから一つ日本一を目指すためにはという、信心をせにゃいけん、いつでしたか、福岡の高橋さんが、体験発表なさる時にそんなこと言うておられました、福岡の千代町に本店があり、支店が次々と出けていく。
 新天町に、それから久留米に、それからまた最近は、福岡のダイエーの中に、まあ来月からは長崎に、支店が出けるという、ですから「この調子で私がおかげを頂いてまいりますなら、日本一の寿司屋になれると思います」とこう言うん、それはただ日本一に美味しい、有名な御寿司と言うとか、というのじゃなくてです、「日本一に大きな売上げの出来れる、寿司屋になれることが出来るだろう」とこう言っておられます、沢山の支店が、みんなその集めたら、これは夢ではない。
 「このおかげを辿ってさえ行きゃ日本一売上げの多い寿司屋になることが出来る」とこう言う、高橋さん日本一も色々あるわけです、2・3日前私の方へ、沢山なあの週刊誌が送ってきた、私知らなかったら、それ後で聞かせて頂いたんですけど、まだ沢山ありましょうっち言うて、今度若先生が、結婚いたします、そのこの嫁になる人の、家の里です、東京の銀座に二葉っていう寿司屋がある、これはもうちょいちょいそういうことがあるんですけれども、今度もその週刊誌が、天皇陛下がね。
 一番喜んで召し上がる食べ物屋を10軒集めておる、御寿司は銀座の二葉に限ると、もう七代も続いた家で、代々天皇陛下の御用をさしてもらう、皇族の方達にも御店に来て頂くこともあると、園遊会などがあると必ず二葉ののれんを持って行って、その寿司の屋台を作って、天皇陛下が、に、もう目の前でこう作って差し上げるというわけなんです、それであちらの親父さんの、その言うことが実は色々書いてある、はぁ偉いなぁと私は思うた天皇陛下、例えば皇族の方がですね。
 どういうお寿司を召し上がるか、それをみんな覚えてるわけですね、天皇陛下は例えば何がお好きとか、皇后陛下はどういうものがお好きとか、と言う様な事をまあ、その書いてございます、なら天皇陛下に御寿司を握って差し上げられる時には、どういう気持ちで、どういう、物を召し上がる、あの作って差し上げるですかという質問に対してですね、「天皇陛下だからと言うて、店にみえる御客さんだからと言うて一つも差別はいたしません」と言うとるですね。
 私は素晴らしいと思うた、それをひっくり返して言うとですね、例えば「店に来て頂く御客さんにでも、天皇陛下に差し上げるような思いで握っております」ということなんですから、はぁなるほど素晴らしいことを言うておるなぁと私は思うた、そういう意味においての天皇陛下が名指しで御寿司を召し上がる、もうこれはやはりそういう意味での日本一だったでしょうね。
 ですから、信心さして頂いて私はもうとにかく日本一、その好みでですね、もうこれは、これだけはこの人が日本一だとこう言う、言う様なものを、まあ自分も思え、そして人からも言えれる、言うてもらえるほどしのものをね、頂いていきたい、それにはね、いわゆる自分がなろうというのではない、神様がならして下さる、神様が道を開いて下さるんだという、道でなからなければ、そういう道は到底開けてまいりません、私が努力をして、開こうというとでは駄目だと。
 先日から御本部参拝の時に、この新刊の書物ものを5・6冊買ってまいりました、その中にです、私はめったに本を読みませんけれども、何かに心引かれて、「神が道を開く」という、書物を、その一気に読んでしまったこのくらい厚いね、それは女の先生で、もうそれこそ金光教の信心にはそういう信心はないと言われて、大変非難轟轟とある、ところの、それこそ狐付きだ、金光様のご信心じゃない、なるほど読んでおって、ちょっとおかしいなと思うところ沢山あるけれども。
 それを教徒社が取り上げておるということは、大変有り難いことだと思います、取り上げてそのご本にしておるんです、此の方は無学の方ですから、神様にはその真を、真心を、を非常に使われる、ところがその字も書けなさらんし読めなさらん、そこで南無金光大神南無金光様、南無は有り難やという風に、その南無を付けて言うておられたらしい、ある時に神様がね、「あの此の方は仏じゃないから、有り難や有り難やで良いぞよ」とおっしゃった、ですからもう祝詞も覚えちゃござらん。
 ただ有難や有難や、あの有難や節というのはそのお婆さんから始まったっちゃなかろうかと思うぐらいに有り難やを言うてあるです、ですからそこに参って来る信者が皆有難や有難やで拝む、もう一切合切が有難や有り難や唱えている、そういう例えば御道の信心は、その見易いものである、その有難いというのが心の底から有難い有難いと感じられるから思わず口を付いて出るのが有難や有り難やである。
 今朝から、あの御祈念の後に、今晩もそこに参っておられますが、久留米から大羽さんという方達が夫婦で、日曜はもう家族を上げてお参りになる、時々神様のお知らせをその色々頂いておられて、これはある教会で熱心な信心をしておられたけれども、おかげを頂くけれども信心が分からないと、いうのでまあお参りになったのが始めてで、信心がそう大してお好きじゃなかったご主人も、最近では一生懸命、もうご主人が先に立って参ってこられる、ですから子供達も日曜にはお参りをしてくる。
 夫婦で信心の話し合いが出来、共励が出来、夕べも、ご主人はどうしても合楽にお参りをしておかげを頂かんならんとこう言う、奥さんの方はなかなか信心が長い方出けておりますから、おかげってんなんてん、そのあなたは言うてから、もう信心を分かりさえすりゃええ、もう子供達が孫達が助かりゃ良かと、と言う様な事で、信心の言わば討論があった、そしたらお夢を頂いておる、と言うのがね、その身内の方がマーケットをしておる、こちらにもマーケットがある。
 ところがその身内のところにあるマーケットの方が、新しくなくて高い、それでその他人の家のマーケットで物を買おうと言う様な、買っておると言った様なお夢であった、信心もやはり私はそうだと思う、縁があるから、その所縁があるから、例えば高い物を、しかも例えばこれをお野菜ならお野菜にするなら、しおれたごたるとを高うして買わにゃんごたると言った様な事では出けん、やはり新鮮で立派で、しかもそれが安いなら、安い所を求めて、信心をさしてもらう。
 何を、言わば信心さして頂いても、信心が分からん、それをまた頂いて、次には熊本の辛し蓮根をお夢の中で頂いた、まあそれに色々と御理解が付いておりましたがです、ですからお互い、例えばその方が何時もおかげ頂いておる教会で、お参りをさしてもろうてです、神様がね、本当なことは分からんけれども、蓮根食うて下さっておるようなおかげを頂いておるという、そしたら次にはムカカのお知らせを頂いておる、むっかっかとも言いますね、いわゆる無花果です。
 これはね、はなムカカと書いてある、花がない、花が無いなりに実ると言うです、「丁度夕べ、主人と二人で話し合ったのがそのことでございました」と、しかし金光様のご信心はね、私共がね、私共の時代に一つ、一花咲かせるほどしのおかげを頂かなければならない、しかもその花が、仇花でなくて、実が実って行くようなおかげでなからなければならない、その実りが子供にも残り、子孫にも残り、あの世にも持って行けるというものでなからなければならんという御理解を頂いておられます。
 はぁそれは主人の言う事がほんなこつ、私の言う事が間違うておった、もうおかげはどうでん良い、信心さえ分かればええ、本当に信心さえ分かれば良いのですけれど、本当の信心でもないものを本当の信心と思うておって一生例えば花も咲かんにしまえたんでは、こんなに馬鹿らしい話はない、ですからやはりおかげを、信心を分からして頂くと言う事と同時にやはりね、花の咲くおかげを頂かしてもろうて、その実りまでも頂かして貰えれるおかげを頂かなければいけませんと言うて、まあ打ち出した事です。
 あれがちぃったその、信心が分かってくるとですね、おかげおかげと言う事をなんか下品なように言うたりする、そんなことじゃない、それもなら神様に地団太踏んでです、どうぞどうぞ今日も商売大繁盛のおかげを頂かして下さい、どうぞこういうおかげを頂かして下さいという信心なら、それは程度が低いと言わなければなりません、けれどもね、本当なことが分からして頂く信心、だから本当のおかげが頂かれる、本当の信心を分からして下さいという願いでなかにゃいけんと言う事になる。
 この世で花が咲くようなおかげを頂かして頂く為にです、には蓮根食うて貰うて花が咲くのじゃない当然花が咲くのだと、しかもちったぁ実るのだと、そういうおかげを頂かなきゃならんね、そこで今日私が一番初めに申しますように「口に真を語りつつ心に真の無き事」と、そこで私共が真とは真とはと、真を追求して行くと言う事です。でそういうなら真とはです、さあいわゆる私共の御大祭が近付いて来ておる、その御大祭に真の限りを尽くさせてもらおう、その御大祭に真を捧げての御大祭でありたい。
 そこでもう言うならば幾日も前から、御大祭御大祭と、いわゆる野口真子さんである、それが真なんである、これは私が二十数年前の、親教会の御大祭を、御用頂くために、三日ぐらい前には福岡から帰ってまいります、もう当時は家内、子供は椛目の方に預けておりました、私は一人でもういよいよ逼迫した中に、信心修行続けておる時代でした、おかげを頂いてから、祭典費のお供えだけはさせて頂いたけれども、今度の御大祭を、それこそお供えをと思っておるけれども。
 そのお供え物がない、本当に相済まんことだなぁと思うておった、家内からその前日手紙が来ておった、椛目の方で、お父さんやらお母さんがとっておられる配給のお米を頂いておるけれども、それではどうも心苦しい、そちらで少しでも良いけん食べ物の配給を取って、えぇ今度帰ってみえる時に帰ってきて下さいと言うておりましたから、みず算段致しましてから、いわゆる当時の真っ黒いメリケン粉を一俵、をちょっときれたぐらいの、量を持って私は、親教会、いわゆる自分の家にもまた。
 その持って帰っておりました、して西鉄の今のあの、今では昔のですから、あの待合室の所で、行列をしてずらーっと並んでその電車を待っておるその間にです、今のことを思うた、御大祭に、御用に帰らして頂いておるが、本当に今度はお供えも出けん、年に一回の御大祭と言われる御大祭に出けん、本当に相済まんことだなぁとしみじみ思うた、そしたらね、足元に置いてある、これそのメリケン粉の一俵を、そこにあるじゃないかと教えて下さった、もう私は本当に途端に弾かれたように思いました。
 はぁほんなこてここにあったこれはもう家内に子供にとばっかり思うておるもんだから、神様に、はぁここにあった、と思うてですね、私ははぁ本当に気がつかんことじゃったと、お参りさして頂いてから、うんならこれをもう家に持って帰らずに、教会にお供えをさして、大祭にお供えとしてさして頂こうと腹を決めたら、神様がね、私の心眼に頂くのが、一匹のニワトリ、めん鳥がね、首をこんなへん、こうこう羽の中に突っ込んでしもうて、おるところを頂いた。
 そしてそこに二・三人羽の、ひよこがおったのがバタバタこう倒れて行くところを頂いた、そしていわゆるその、「思案ながらの首で、さあ今日はお米が来るじゃろうかメリケン粉が来るじゃろうかと、言わばその待っておる、家内がおるぞと、お前そんなことしよったら子供達はバタバタえがつれしてしまうぞと、それでも良いか」という風に心に響いてきた、私その時にですね、もうそりゃすっきりしたもんでした。
 日頃ね、み教えを頂いておる、とても私共が生きようとして生きられるのじゃない、神様のおかげで許されて生きておるのである、神様がお生かし下さると言う事を私は確信いたします、今気がつかなかったらいざ知らず、只今お気付けを頂いて、そこにお供えがあるじゃないかと言われてから、それを引っ込む様な事は出けません、私はこのままこれを今度の御大祭のお供えにさせて頂きますから、家内の事は子供の事はどうぞあなたにお任せいたしますと言う事を、心の中で申し上げさして頂きましたらね。
 もう私の心眼にずうっと広い広い湖を頂いた、しかもその湖の向こう方からもうそれこそびっくりするような大きな、水鳥がね、口になんか餌のようなものを加えてもう、一文字にですね、その水湖を走って行くところを頂いた、向こうの方には餌を探しておった小さい水鳥が、餌がないもんだからばらばらにちって行っておるその後ろをです、矢を射るような勢いで、口に加えておる餌のようなものを持って行くところを頂いた、はぁ私共の心の中にです。
 例えば信ずる心を頂くということは、本当に尊いことだと思います、場合になってはです、なら家内が子供がえがつれして倒れる様な事があってもです、そりゃままよという心の向こうにお徳が受けられる、力が受けられる、私はそういう、言わば生き方を持っておかげを頂いてきた、これは余談ですけれども、御大祭終わって帰らして頂いた、帰ったら私の家の前に、自転車が一台止まっておった、しかもその自転車にこうメリケン粉が一俵つんである。
 「これは今あんたん所は今日は誰もおんなさらんけん帰ろうかと思いよった」っち、中国人の方でした、お商売ので、以前にお世話しておった方が、ああ大変おかげ、まあ儲かったと言うて、御礼にと言うて、自分達が頂いておる進駐軍からのあの真っ白いメリケン粉を後ろに乗せて持って来て下さった、はぁこれがあん時に頂いた水鳥が餌を加えて走って行ったのはこのメリケン粉だったなと思うようなおかげを頂いた、私は真というのは、真心というのはそういうもんじゃなかろうかとこう思う。
 そこから生まれてくる確信、神様を信ずる、例えて私はあの、お月次祭たんびに思うんですけれども、お祭が始まると、必ずいわゆるこの、おおぬき行事があります、お祓いを受けるわけです、私はあのお祓いを受ける時にですね、例えば月次祭から月次祭までに、どこに知らず知らずのお粗末がご無礼がついておるやら分らない、それをね、あの言うならば、あのぬさの、いわゆる神風のような、音を聞かせて頂く時にです、はぁこれで清められた、これで御神前に出れれるなという実感がいたします。
 どんなに大祓いの時に自動車を祓うてもろうたと言うても、そりゃ祓うてもろうただけでも、祓わんよりか良かと仰る、けれどもね祓うてもろうたら絶対におかげが頂けれる、事故なんかは、起こる筈はないと、確信するほどしの、私はお祓いを受けなければいけないと思う、お月次祭には遅れて、お祓いも受けられんでお祭を拝むなんて、ことはこんなに勿体無い話はない、ですからあのお祓いを受ける事がですね。
 私の言わば心が清められ、清めさせて頂かれば清まるんだと信ずる心が、もうそのままおかげなのです「神は信ずる者を信ずる」と仰せられる、はぁお祓いを受けたから清まった、お祓いを受けたから、もうこの自動車に事故の起こる様な事はないと確信する、だからそれを信ずる、心がそこから生まれてくるね、ですからなら信じなさい信じなさいというて、信じられるものではないけれども、やはり実際に神風にも似たようなね、神さびたあの祓いの音を聞かせて貰うと、何とはなしにそれが有り難い。
 それが段々確信ともなって、絶対と言う事になってくる、そういう確信がです、今日私が申しました、真の道とはとかね、その真の道を求め求めさせて頂いての、信心にならなければ、言うておることも思うておることも、明けても覚めても金光様、明けても暮れても、神様が喜んで頂く信心とはと、心に念じ続ける、私はそれが楽しみにならにゃいかんと思う信心は、信心とはそれなんです、だから心の中におろよかことやずるい事どんは考えられない事になってくる。
 それこそ寝ても覚めても金光様、寝ても覚めてももう間近に近づいておる御大祭の事を思い、で明け暮れると言う様なおかげを頂かして貰う、それが例えば今晩は真だと、これは私が言いよるとじゃない、神様が中村さんに対してそういうお知らせを下さった、野口真子さんが「御大祭御大祭」と言うておられる「あなたはどうですか」と言われて目が覚めたとこう言う、御大祭が近づきよるが、ならご案内を受けとるけん、その時に時間に間に合うごと参りさえすりゃ良かと言った様なもんじゃないとね。
 御大祭とは御大祭とは、いわゆる御大祭御大祭御大祭には神様に喜んで頂けれる、思いをそこに捧げさせて頂いてのお祭と言う事にならして頂かなければ、お祭が有り難いと言う事にならない。今日は口に真を語りつつ心に真の無き事と仰せられるが、口じゃね、事だっだけではなくてね、行いの上にもやはりまくて、真が溢れておる、私共にならせて頂かなければならん、そこに真の道が開けてくる、そこを真の人は辿らして貰う、この真の道というのは、いわゆる真の人にならなければやはり辿られない。
 そして願いとするところは、本気でこれはもう日本一と言うだけじゃありません。世界一でもいいわけです、本当に一つ日本一有り難い私にならせて頂こうと言う様な願いにならせて頂くなら、何をかも持って、日本一のおかげの頂けれる事になってくる、例えば先ほど、お話しました女の先生の話の中にですね、大変厳しいやかましいお姑さんの元で、修行された、もうその真が溢れておる。
 それが何時の間にかご主人が感化されてお道の教師になられ、お母さんがもうとにかくやかましい人だったけれども、そのやかましい、そのやかましいぶりがです、もうとにかく内の嫁は日本一と言うて回られるほどしになった、だから私は今日思うのにですね、内の主人を日本一にせないけませんです、内の家内を日本一にせにゃきゃいけませんです、ね、本当に自分の連れ合いをもう本当に日本一と、私は思わせて頂けたら、私は本当にその人のためには日本一だと思うです。
 そこに私共は夫婦なら夫婦、親子なら親子の中に幸せがあると思う、「内の主人は、内の親は」と言うておって幸せがあるはずがない、自分の主人が日本一、もう内の家内、これは私は何時も思うとる、自分の家内に何時も申します、これは日本一じゃなか世界一と思うとる、(笑)ね、と言うほどしに私は幸せだと言う事になります、家内もそう思うてくれておればやはり。
 日本一有り難いと言う事になるでしょう。ですから日本一にならせて頂こうと言う事と同時に、日本一にです、まず自分の周囲の人達を日本一にしていかにゃいけん、私は繁雄さんに申します、「もうあんたはどげん言うたっちゃ世界一ばの」っち私は言う、私にとってだけは、そこにね私の幸せがある、私の周囲に一つ本気でね、日本一の人を沢山、作らして頂くようなおかげを頂きたいと思う。
   どうぞ。